2021.09.14
【天王寺駅前】「障がい」について考えてみよう①
こんにちは。ミライエ天王寺駅前のスタッフです。
いつもスタッフブログをお読みいただきありがとうございます!
さて、この夏は東京2020パラリンピックが開催されたこともあり、「障がい」という言葉に触れる機会が多かったと思います。
しかし、「障がい」という言葉について、じっくりと考えたことがある方は少ないのではないでしょうか?
そこで何回かに分けて、皆さんと一緒に「障がい」について考えていきたいと思います。
ぜひ最後までお読みいただければ幸いです。
「障がい」って何だろう?
皆さんは「障がい」という言葉を聞いて、どのようなことを思い浮かべますか?
手足が不自由なことでしょうか
目が見えなかったり、耳が聞こえなかったりすることでしょうか
抽象的な概念を理解することや急激な環境変化が苦手なことでしょうか
感覚が過敏であったり、他人とのコミュニケーションが不得手だったりすることでしょうか
このように、「人がもつ心身の様々な特性・特徴」それ自体が「障がい」であると捉えることも、ひとつの解釈だと思います。
しかし、人がもつ特性・特徴の違いだけを捉まえて「障がい」の有無を判断することに、どれほどの意味があるのでしょうか。
思うに、この解釈の背後には、「自らと異なるものを区別し距離を置きたい」という不寛容の精神が潜んでいるように感じます。
では、改めて「障がい」とは何なのでしょう?
「障がい」の実体 ~個人モデルと社会モデル~
私は、「障がい」とは、
人がもつ心身の様々な特性・特徴それ自体のこと
ではなく、
様々な特性・特徴を有する個々人が、社会で生きる中で感じる「生きづらさ」や「困難」のこと
だと思います。
このように解釈することではじめて、ひとりひとりが抱える生きづらさや困難が浮かび上がり、「障がい」の有無を区別することに意味が生まれてくるのではないでしょうか。
では、この「障がい」はだれが解決すべきものなのでしょう。
大きくふたつの考え方があるとされています。
ひとつは、「個人モデル」と呼ばれる考え方です。
個人モデルでは、生きづらさや困難の原因は、ひとりひとりがもつ特性・特徴にあると考えます。
そして、原因が個人にあるのだから、それを解決するのも個人の責任とされます。
もうひとつは、「社会モデル」と呼ばれる考え方です。
社会モデルでは、生きづらさや困難の原因は、社会の仕組みにあると考えます。
そして、原因が社会にあるのだから、それを解決するのは社会の責務とされます。
さて、「個人モデル」と「社会モデル」、どちらの考え方が適切でしょうか。
人の特性・特徴は、本人の努力で変えることができるものもあれば、変えることが難しいもの、どう頑張っても変えることができないものもあります。
このように個人の取り組みだけでは限界がある以上、生きづらさや困難の原因をすべて「個人モデル」ひとつで片づけ、それを解消する責任が個人にあるとすることは適当ではありません。
よって、「社会モデル」の考え方に重点を置くのが適切なのではないかと考えます。
長くなってしまうので、今回はこのあたりにさせていただきますね!
次回は障がいの「社会モデル」について、もう少し掘り下げていきたいと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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それでは!